北アルプス; 穂高縦走
(ほだかじゅうそう)

初秋の北アルプスへ


 H6年9月16日〜21(金〜金)前夜発 ;
 Member.計2名

 【コース】(=は乗り物、〜は歩き)
9/16(金)一日目
 (9/15木、横浜発夜行バス21:00発)=上高地6:10〜明神7:00-10〜徳沢8:10-20〜横尾9:20-30〜一ノ俣10:30-35〜槍沢ロッジ11:15-12:00〜天狗原への分岐14:10〜殺生ヒュッテ16:30(泊)

9/17(土)二日目
 殺生ヒュッテ7:00〜槍ヶ岳山荘7:40-45〜槍ヶ岳山頂(3180m)〜槍ヶ岳山荘8:50〜殺生ヒュッテ9:30-10:00〜分岐11:10-25〜槍沢ロッジ12:35-13:50〜一ノ俣14:30〜横尾山荘15:30(泊)

9/18(日)三日目
 横尾山荘7:15〜本谷橋8:25〜涸沢10:30-11:20〜分岐15:30〜北穂高岳山頂(3106m)15:50-16:30〜北穂高小屋16:30(泊)

9/19(月)四日目
 北穂高小屋7:40〜涸沢岳(3103.7m)9:50-10:00〜奥穂高岳山荘(2983m)10:20-11:20〜奥穂高岳山頂(3190m)12:10-25〜紀美子平14:15-20〜前穂高岳山頂(3090.2m)15:05-15〜紀美子平15:45-16:00〜岳沢ヒュッテ(2230m)18:30(泊)

9/20(火)五日目
 岳沢ヒュッテ(2230m)7:00〜上高地(入浴)9:05-?〜田代橋(登山口)12:30〜西穂山荘16:35(泊)

9/21(水)六日目
 西穂山荘6:35〜西穂独標(2701m)〜西穂高岳山頂(2908.6m)9:45〜西穂独標(2701m)11:45-12:20〜西穂山荘13:25〜上高地16:30着16:50発=新島々18:12発=松本18:49発=新宿21:36着=自宅22:30


 奥穂に登りたいと言っていた私と、奥穂は登ったけれど槍と前穂、西穂が未踏というTさんの間に入って、主人がO,Kのサインを出してくれた。しかも「どうせなら全部登ってきたら」と1週間猶予までつけてくれて。私にすれば願ってもないことで、日程は少々厳しくても全部こなす意気込みだった。只、Tさんのペースが分からないためプランをたてる段階でなかなかスムースにいかなかった。彼女の予定では余裕の時間がありすぎて物足りないし、全てを歩くには日程的に無理が出てくる。私より10歳も下の、彼女の若さとキャリアをたよりに、お互い妥協しあって作り上げた計画だった。それでもハードな部分はどうしてもあり、彼女にすれば多少の不安が残ったようだった。

 私はむしろ死と隣り合せ?の北アルプスとはどういう所かと、期待と緊張の入り交じった複雑な思いを持ちつつ、歩きぬいてやろうと思っていた。

 当日、出発間際に荷物が15キロと分かったときはさすがに驚いたが、観念して背負ったそのリュックとウエストバックはずしりと身にこたえた。娘の声援と主人のお見送りで夕食後、横浜へと向かった。夜行バスは、結婚前に会社の人達とのスキーバス以来だ。車で夜中出ることは、家族ではいつものことなので慣れているし、直行便の魅力もあった。でも空いていたとはいえ、たびたびのトイレタイム、その度の人の小声、寝心地の悪さ、私はこんなにも神経質だったかと思うほど眠れなかった。


[一日目]9/16金

 翌日、予定の6時より少し前に上高地に到着。しかしそこは雨。すぐにやむと思っていたら、この後横尾辺りで又新たな台風が近づいていると聞く。この時はまだ高を括っていた。簡単におにぎりの朝食を食べ、雨具を身につけ、出発。明神、徳沢、横尾と平坦な道を歩いていった。雨の中にノコンギクが鮮やかだった。黄色のアキノキリンソウ、白いシシウド、ユーモアのあるカニコウモリの葉、真っ赤なゴゼンタチバナやマイヅルソウの実がこれから登っていく私たちを励ましてくれているようだった。梓川の渓流は目に美しく映り、耳に優しく響く。雨は静かに、時には強く降り注いできた。冷たい風は蒸れた体に心地よく思われた。ガスのため槍はずっと姿を隠し、初日から最悪の天気、体にも当然影響が出てくる。Tさんのペースが落ち、間隔を狭めた休憩の度に水を補給するが、最後までしんどかったようだ。この日は初め彼女が先を行き、後半は私が先に立った。タイムは余裕をとってあったため遅れていなかったが、体力的に限界と判断して当初の槍ケ岳山荘の手前、殺生ヒュッテで泊まることにした。ガスで迷わないようにTさんを確認してから、ひとまず先に小屋へ荷物を置き、彼女の荷物を持ってあげるため引き返した。彼女の荷物は軽く感じた。私は一体何をつめているのだろう。

 殺生ヒュッテにして正解。小屋はすいていて、伸び伸び寝ることが出来たし食事もまあまあ良かった。乾燥室と食堂の暖が、なかなかとれなかったことが難といえば言えた。私はズボンの替えを持って行かなかったため乾かすのが大変だった。持って行くべきか置いて行くべきか、これはいつも判断に悩まされる。でもストーブの周りでの談話は楽しい。山の話がつきない。


[二日目]9/17土

 夜中じゅう雨が降り続き、残念ながらご来光も望めなかった。小屋から槍まで約1時間。昨日はガスのためその姿を全く見ることが出来なかったが、この朝そのガスの切れ目に思いがけない近さでその槍の姿を認め、一瞬我が目を疑った。突然大きく眼前に現われた戸惑いは、失望に近かった。どこにいても一目でそれと分かった槍、遠くから憧れに似た気持ちで追い求めていた槍、登る間その崇高な神々しい姿を一度も見せず、いきなりそのシンボルを見まごう程当り前の平凡な山をつきつけられ、これが槍といってもエッ?と思うのが正直な気持ちだった。殺生ヒュッテから見た槍は聞いて初めて気がついたのだ。

 とにかく雨でもこの上の槍ケ岳山荘、通称肩の小屋まで行って見ることにした。予定では尾根を北穂高小屋まで行くことになっていたが、オーナーから悪天候と経験の無いことからストップがかかり、槍のピークを踏んでから一旦下山することにした。今日踏めなければ連泊するつもりで。ガスが常に流れている。消えては現われる槍を、この時は確信しながら目指し、肩の小屋から見るそれは間違い無く槍そのものだった。そして運良く雨とガスが切れたチャンスをのがさず登った。あきらめて下山する人も多かった中であきらめない人も又多かった。この凄い岩陵を無事に登りきれるだろうかと不安と緊張の張り詰めた気持ちで登った。登山ラッシュの上に再びガスがかかり、雨が降って、あと一息で山頂、というところでツアー(慣れていない感じの年配者10人位)の下山とはち合わせ、下山を先に譲ることになったため、私を先頭に随分長いこと待たされた。ようやく登った山頂。ガスで十分な展望は望めなかったが満足だった。自分のこの二本の足(&、二本の手)でここまできた充足感はいつにも増してあった。山頂は狭く、後から来る人のためにあまり長くはいられない。下山も注意を要するがスムースに下りられた。年配の人や、いかにも山は初めてといった感じの人が多かったように思う。肩の小屋で記念のバッジと絵葉書を買い、ヒュッテに預けた荷物を取りに寄った後、キレットに多少の未練を残しながらも安全を考慮して下山。又も雨が降っていたが私たちを誉め賛えてくれるかのように、いくつかのイワギキョウとドライフラワーになりかかったトウヤクリンドウが顔を見せてくれていた。もうほとんどのお花が枯れている中で、とても慰めになった。またも下山の長い道のりを、明日また同じくらい登るのだと思うと、目はついつい槍からのびる穂高への陵線へと向いてしまう。いつか又通ることがあるだろうか。

 横尾まで戻りそこで宿泊。思いがけなくお風呂に入ることができて嬉しかった。お風呂上がりにはビールを飲みながらテレビで相撲観戦。盛り上がってしまった。二段ベッド、8名の部屋に女性計5人。やはり山の話で会話が弾む。しかももう一組みの二人連れは、同じ時間に槍に登っていて、山頂で写真まで写してもらっていたことが分かり、思わぬ奇遇にますます雰囲気が和む。


[三日目]9/18日

 翌朝やはり雨が続く。この日は北穂に向かう。幸い雨が上がり、涸沢に向かう足取りは軽かった。Tさんはやはり遅れ気味だ。先に歩いては待ち、歩いては待って要所要所で水分を補給する。ここは途中までTさんが以前登って通ったコースだそうだ。経験があると聞けば私も安心感が出てくる。涸沢の小屋やテントが見えて、きれいな川沿いの良く手入れされた登山道を登ると、ミヤマナナカマドなどが所々赤く染まり、初秋の味わいを見せてくれている。

 解けてかなり小さくなっているものの、涸沢カールと呼ばれる雪渓のスケールを見やりながら私たちはその展望台のある涸沢小屋へと向かった。取り敢えずそこで昼食をとりながら再度コースを検討。Tさんは尾根の危険マークを危惧して、ここへ荷物を置いて、北穂へ往復した上でここに泊まりたいと言った。昨夜同室だった人達の「大丈夫」という言葉に励まされたこともあったが、私は始めから尾根歩きにしたかった。言葉には出さなかったが、キレットを歩けなかったから、ここで又リタイヤするのはいやだった。幸い天気は回復してきている。登りのコースの状況によってはどうなるかわからないし、可能な限り予定のコースで行きたかった。それで荷物は持って、北穂を目指そうと主張。結局持って行くことにしたがこれもまた大正解。小屋から先は青空が覗き、少し暑くなった。流れ落ちるせせらぎが心地よかった。ここでもイワギキョウがけなげに咲いていた。ガレ場を登りながら山頂を求める。周りの山容を眺めながら登れてうれしかった。鋸のように刻まれたその姿に、思わず、あれが歩くのを断念したキレットかと胸を震わせた。実際はそうではなかったが、北アルプスの壮大さに唸る思いだった。鎖場、ハシゴは緊張した。Tさんはここでも遅れ気味。進んでは待ち、進んではまた待った。こまめに写真を写しているせいもあったが予定をかなりオーバーした。この頃になってようやく彼女の体力が分かってきた。北穂高小屋の場所が確認できて来た頃、危険箇所はそう無いと見定めて、彼女の居場所を確かめながら思いきって先に行った。山頂について、標識に抱きついてから荷物を置き、今回もすぐ引き返した。彼女の荷物を背負って再び山頂へ。たいした距離ではなかったが、それでも10分の差があったろうか。小屋はすぐ側の眼下にあった。残念ながらまたもやガスがかかり、視界は駄目。

 楽しみにしていた槍が見られなかったのは残念だった。山頂でお湯を沸かし、コーヒーで乾杯。雲行きが怪しくなって、小屋にはいる。まるで下界の昔の喫茶店に出会ったような温かい落ち着いた雰囲気の小屋だった。今夜は私たち2名と聞いて寛いでいたら、雨の中若い男女の二人がやってきた。お互い気分よくワインをグラスで飲み、まるでレストランのような扱いで食事をいただく、これが山小屋だろうかと思いつつ気をよくして。

 四人だけののんびりした夜。布団にくるまってゆっくり眠りに就いた。


[四日目]9/19月

 高山病(頭が少し痛かった)にもかからず爽やかな目覚め。すぐガラス戸越しに外を見る。オレンジ色に明るい。初めて朝日が拝めそうだ。皆を起こして急いで山頂へ。お互い写真やビデオを撮り合った。後からこの時の写真を見るとTさんも私ももう既に顔がむくんでいた。槍が相変わらず見えなかったのが残念だった。そしてキレットがどんなものだったのか、通れなかっただけにせめてここで見てみたかった。濃いガスに阻まれて本当に残念だった。

 朝食もまるで高級レストランのようにボーイさん付きのおしゃれな雰囲気。この優しいムードとさっきの山頂の感激がこの日の出発を40分程遅らせてしまった。これが後で尾を引いてあんなことになろうとは。

 この日は始めからTさんに先頭を歩いてもらい、最後までそうしてもらった。彼女のペースに合わせるためで、この方が少しでも不安は軽くなった。岩石の連なる尾根伝い、変に懐かしく感じたのは何故だろう。昔私が一人で歩いたときこんなところを歩いた気がする。何処とは思い出せないが。

 ガスのかかった行く手に見い出せた楽しみは、一瞬のガスの切れ目に見えた涸沢の大雪渓、そして休憩で振り返ったときに頭を覗かせた槍の姿、人を恐れぬ雷鳥の親と子だった。ビデオは少ししか写せずほとんどリュックにしまいこまねばならぬほど、ハシゴあり鎖場ありの難所だった。ちょっとの気も抜けないハードさだったが私はそれを楽しんでいた気がする。両手両足を駆使しての四輪駆動はまるでロッククライマーの気分にさせられた。涸沢岳を、赤い布のあった手前の山と思い込み、思わずほっとしたのも糠喜びだったが、本当に涸沢岳に着いたときはガスの切れ目から奥穂高小屋がもう目の前に見えていて、とっても安心感をおぼえた。立派な小屋の前で簡単に昼食を済ませ、やはりガスの切れ目から突如と眼前に現われる壁のような奥穂の山を内心とっても不安な思いで見上げる。こんな山、本当に登れるのだろうかと。唯一Tさんが経験者であることがいくらか不安を和らげてくれていた。いきなり梯子だったが時間通りの50分で山頂に到着。ガスで展望はきかない。残念だった。でもそこの方位台を感慨の思いで撫でた。やっと来た。家族にありがとうと感謝をしながら。

 前穂への道は比較的楽な尾根伝いだった。眼下に上高地が見えてきたりして気分的にも楽だった。しかし雨が降り出してきた。紀美子平で時間の遅れは15から20分程。この時、韓国の男性二人連れに出会った。私たちと逆方向へ縦走するようだったが前穂には登らないという。この人達とまた再度出会うとは思いもしなかった。私たちは前穂に登った。地図上では往復1時間で行けることになっている。しかしこれはちょっと無理があった。予定の1.5倍。登る前に時間はチェックしていたのだが遅れをカバーするどころかますます遅れる始末。ガスはかかるし雨は降るしでもち論視界はきかない。最悪の状態の中でただピークを踏めたというにすぎなかった。

 再び紀美子平で雨具を着込んで、下山に向かった時には1時間の遅れになってしまっていた。4時出発で予定通り2時間30分で下山できたとしても6時半。暗くなってくるだろうし、この時ばかりは今さら出足の遅れを悔やんでも仕方ないとおもいつつ気を引き締めて進んで行った。その重太郎新道はなるほど一度歩いたことのあるTさんの言うとおり、かなりハードな下りだ。その上雨でとても滑りやすい。一枚岩の鎖場などはもう必死だった。でもガスで景観が遮られていたのはかえってよかったかもしれない。時間がなくて、周りを眺めるゆとりなどなかったから。ようやく、よく歩く山道らしきものになってきて、それでも気を抜かずに歩いていると雷鳥の踊り場と呼ばれる場所に出た。かすかにガスが晴れて上高地の方向が見えてくる。夏などは高山植物が見られるところだそうだ。さてもうひとがんばりと少し進むとカモシカのお立場や岳沢一帯の見える場所があった。今夜宿泊のヒュッテはあの辺りと何気に眺めていた。この時視界の開けていたことに後からとても感謝しなくてはいけない事が起こるなんて、この時は露程も思わなかった。途中で懐中電灯を出し、まだかまだかと時計を見ながら降りていき、やがて河原らしき場所へ出たときにはもう真っ暗だった。灯り一つ見えなくて、ヒュッテがすぐ目の前にあるとばかり思っていた私はびっくりしてしまった。前にも来たことのあるTさんに尋ねてみるが、覚えていないという。とにかく進まねばならないが、道一本だった山道に比べ大きな岩の転がった河原となると、方向を定める印一つ探すのにも電灯を照らしながらで数メートル行くうちに全く何の変哲もない、大きな河原岩ばかりになってしまった。Tさんは今にも泣きそうになってしまった。ヒュッテが見つからなければまた、あと2時間かけて上高地まで向かわなければならない。これはきつい。丁寧に電灯で周りを照らしていく。下山の途中からその場所を確認しているのだから絶対あるはずだ。と、ふと思い当たることがあった。小屋は確か河原の右の方向にあったのだ。心配そうなTさんを励ましながら右へ行ってみると、案の定しっかりした道があった。もう間違いない。小屋は目の前だった。灯りをもう少し手前に出してくれていたならば迷わずにすんだものをと、思いつつ、薄暗がりの小屋に荷をおろした。時間は6時半。夏ならばまだ明るい時間だが。超強行軍に対する彼女の非難めいた言葉を聞かされたのも止むを得ないが、当然小屋主さんから厳しいお咎めがあるものと覚悟していた。しかし意外なことに皆さん温かくもてなしてくれた。そしてそのお味噌汁のおいしかったこと。いつもならここで入浴ができたそうだが今年は雨不足で中止しているとのことだった。小屋にしては珍しく、そこの人がわざわざお布団を敷いてくれていた。翌日のプランを再確認して就寝。


[五日目]9/20火

 同部屋の人の言う言葉で当初の計画とは違う、岳沢から直接西穂に登るコースを昨夜検討してみたが、小屋主さんのアドバイスとTさんの希望でやはり一旦上高地に下山することにした。この日はもう二人共、自他共に確認できるほど顔がむくんできていた。2時間あまりの道のりをのんびりと下り、上高地の景観をゆっくり楽しんでから温泉につかり、カツカレーで力をつけてから3時間の道のりを4時間かけてゆっくり登った。変わった茸があっちこっちにあって、Tさんは一生懸命写真を撮っていた。この日はとりあえず西穂山荘まで。だから登りでも気分的に楽だった。その間は昨日までのようなガレ場はなかった。いつもの山歩きと変わらない。山荘には4時半着。火災のため最近建て直したばかりのため広くてとてもきれいだ。反対側の新穂高温泉からはロープウエイで登れるため年配の人や軽装の人が多かった。相部屋は50代位の細い女性が一人。神経質そうな人でご飯は外米が食べられないからと、食事時には一人、部屋でリュックから出して食べていた。今年は米不足でタイ米を大量輸入した大変珍しい年。アメリカやら、中国やらの混合米を政府の政策で食べさせられていたから当然こういったところでもそれが出るはずだ。でも私にはおいしかった。なんでも美味しく戴いていたが、それより気になるのは塩分の取りすぎだった。小屋の食事はどうしても保存のきくものになる。そう思いながらも、お味噌汁はとても美味しくて、どこで食べても嬉しかった。そしてお茶が何より嬉しい。そして一息ついたときにグリップで入れてもらったコーヒーは格別だった。登ってきたのと反対側の方向をガラス窓から見ると笠ガ岳くっきりとうつっていた。窓を開けて眺めていると登りたくなってくる。Tさんについでに登ってしまおうと誘いをかけたがこわい顔で「もう駄目です。休養する日にちも要るのですから」と一蹴されてしまった。

 テレビ(山の上なのに下界と変わらない生活形態)ではいつしか穂高のビデオを流していた。歩いてきた道のりや歩けなかったキレットなどを空撮で、また厳冬のころや春先、夏と異なった季節なども見ることができた。今もなお登山継続中なのに、感慨深く見入ってしまった。このビデオ欲しいなと思ったけれど、高いだろうなと思ってそれ以上考えるのはやめた。終わって玄関のほうのテレビに眼が行くとそこには満月が映っていた。そうだ今日は十五夜だ。上に羽織らずそのまま外に出た。それはそれはとっても素敵なお月様。

 部屋に戻っても寝るにはまだ早い。ロビーで図書室から持ち出してきた本を二人で読んでいると、前で年配のご夫婦と、若そうに見える私と同じくらいの年齢の男性が話している声が聞くともなく聞こえてきていた。いろいろな山や海(スキンダイビング....Tさんもやっている)の話しをしていたのでつい、私たちも会話に加わってしまった。その男性は、いろいろ遊びに長けているようでなかなか話しが面白い。今日は親孝行のつもりで両親といらしたそうだ。ご両親はもう休まれたようで、ご自身はそこで時間を潰していたらしい。山だ、海だとよく出かけるらしいので、「失礼ですが、おひとりですか」とおせっかいなことを聞いてしまった。間髪入れず、にこやかに「バツイチです」といわれる。私も調子にのって「そうでしょうねえ」と一緒に笑ってしまったが実にさわやかな人だった。

 消灯で床に就いたものの、この日が一番眠れなかった。昼間、温泉に入ったからかえって疲れが出てしまったのだろうか。体中がけだるくて、寝返りばかりうっていた。夜が長かった。


[六日目]9/21水 

 洗面台で見ると目が腫れぼったい。この時もまだ寝不足のせいだと思っていた。体力は気力でカバーする自信があったから、あまり気にせず、今回初めてのさわやかな日の出を楽しんだ。山荘の前だから目の前の小山の陰だった為、山頂で見るような日の出にはお目にかかれなかったが清々しい朝だった。朝食を済ませ即出発。少し登るとさあーっと展望が開けた。素晴しい眺めだ。笠ガ岳が手招きしている。振り返れば焼岳が待ってるよーと言っているようだ。あとから行くからネと心の中でつぶやいて、左に目を移すと乗鞍岳が「お久しぶり!」と。なんて見事な景観だろう。ビデオのバッテリーのなくなってしまったのが残念でならなかった。

 よく整地された道を登って行くと、やがて鋭い剣先がいくつも見えてきた。どれが独標だろうと思いつつ予想をはるかに超えた行き先にまず息をのんだ。そして最初の方でTさんが「石原さん、西穂から降りた後、焼岳やめてもう一泊しようと言ったら怒りますか」と細い声で言った。その時はまだ冗談だと思って「下りてから考えましょ」と笑って答えた。はじめの小さなピークになったとき下りる所が見つからなくて、彼女が「こわい」と言い出した。これはいけないと思って「引き返しましょう」と言った。すると今度は「ここまで来て引き返すんですか?」と言ってくる。「私は構わないから、無理しなくていいから」と言ったが、彼女は「大丈夫です。行きましょう」と石にかじりつきながら足元を探して下りて行った。確かに彼女といわず尻ごみしたくなるほどの山だった。これで雨が降っていたり、ガスがかかっていたりしたらとても危険だ。ほんの少し前に川崎在住の50代の女性がこの山で亡くなっている。私たちは注意を要する所は言葉も発せず慎重に行動した。いくつかのピークを通り越して、どれが独標と気付かずに山頂に着いた。「ありがとう、ここまで来れたのはあなたのお陰よ。私は奥穂だけ登れればいいと思っていたのだけれど、あなたがまだ行っていない槍と西穂も登りたいと言ってくれたから、私もこうして登れることができたのよ」と言って彼女と握手した。彼女はただひとこと「この山を甘くみていた」と呆然と小さく笑ってつぶやいていた。

 山頂に来て残念ながらまたガスがでてきたが、あれが奥穂かなと見つめ、眼下にあの暗闇で見失った岳沢ヒュッテを不思議な思いで見ながら、直接登ったらあの道を歩いてきたのかなと目で追いながら立つその山頂は万感の思いであった。

 帰りは独標の位置を見定めてそこで昼食。相変わらず両手両足でしがみついての下りではあったが、一度通った道だから幾分気は楽だった。Tさんはかなり体に堪えていたようだ。独標であったかいヌードルとお弁当を食べながら、わずかにガスの切れたあたりに二人で目をやったが彼女は笑顔が消えてしまっていた。

 結局これ以上は無理ということになって、これからまた登るはずだった前方の焼岳など、最後の景観を味わいながら再び西穂山荘まで戻った。取り敢えず上高地まで下り、バスはもう間に合わないから、キャンセルして電車で帰れるようだったらそれで帰ろうということにした。山荘で一息ついてから下山路についたが、彼女の足取りは思いのほか早かった。一生懸命だったのだと思う。それでも3時間かかっているが(地図では2時間のコース)。下山に向かって間もなくだったが老御夫婦が木陰で休んでいらした。白髪のおばあさんで、おじいさんは登山帽をかぶり、万能ナイフでりんごの皮をむいていらっしゃる。お二人共にこにこと、とても穏やかな表情で、ペアルックのシャツを着ていらっしゃるのにはびっくりしてしまったが、それがよく似合って、ばっちり決まっているのだ。おばあさんが82歳、おじいさんは何と89歳だという。とてもそんなには見えなかった。この山には30年来登っているそうで、最近は息子さんと登るのだけれど今日は仕事で一緒に来れなかったという。その息子さんも60歳前後(伺ったが忘れてしまった)と言って、笑っていらした。今年の3月には1メートルくらい雪の積もっているこの山に登ったといわれるから驚いてしまった。私などヒヨッコもいいところだ。その仲睦まじさに「これからも気をつけて楽しんでくださいね」と声をかけて私たちは下りてきたのだが、とても爽やかないい気持ちだった。

 上高地のバスターミナルに着くとバスが出発するところだった。でも切符をキャンセルする間待ってくれて、無事新島々行に乗車できた。休む間もなかった上にバスは助手席だったが、このバスの中で、前穂の紀美子平で会ったあの韓国の二人の男性と再び会ったのだ。私があのとき写真を撮ってあげて、二言三言、言葉を交しただけだったが、その人達も覚えてくれていたらしく、驚く私ににこにこと笑っていた。あまり言葉が通じなくて、片言の英語と地図を見ながら聞いて見たら、私たちと逆方向へ行き、槍まで登ってきたという。一人はロッククライマーだという。言葉の分からない彼等に下車を教えてそこで別れたが、この二人も爽やかな人達だった。

 松本からのあづさ34号、6時49分発に乗れて、駅弁を食べたあとぐっすり眠った。この時足が組めなくて、事態がよく飲み込めないままに、だらしなく寝てしまったのだが、足がむくんでいるとはこの時もまだ自覚していなかった。

 新宿9時36分着、それから1時間後には家に着いたのだが、案の定主人に「なぜ焼岳に登って来なかったのか」と、言われてしまった。

 お土産を買う間もないままで、家族に温かく迎えられ、幸せこの上ない。

 そして、驚いたことに体重が5キロも増えていた。四、五日後にはむくみがとれたと同時に、体重もすっかり元に戻り、これもまた驚いてしまった。聞いたところによると腎機能、肝機能が低下して、体中に酢酸が溜まったそうだ。本当かどうか知らないが。登山すると男性は痩せ、女性は太るとはこういうことかと、半信半疑の気持ちでいる。

     “頂きにガスのかかりて奥穂高 標識持ちて家族を想う”

     “この年の願い最後に奥穂高 次の夢はと頭かすめし”

     “天を指す槍仰ぎ見るイワギキョウ人慰むるその身の厳しき”

     “碧空に穂高並びて梓川河童橋入れシヤッターを切る”

     “細き山の連なりはるか西穂あり帰れ帰れと言うが如しに”